パーフェクトな瞬間
川崎の知的障がい者作業所で指導員してた時は、まだまだ人生の方向性みたいなものもはっきりしてなかったし、子どもの頃からの漠然とした、「あたり前に世界に出ていく」という思いが、どんどん膨らんでいった時期。
沢木耕太郎の「深夜特急」やロバートハリスの「エグザイルス」などがの本がバイブルとなり、
日曜日の夜は「世界ウルルン滞在記」や「世界遺産」をテレビで見ながら海外への憧れを募らせていた。
その思いを実現させたのが2000年6月のこと。
作業所の仕事も辞め、住民票の住所も抜き、文字通りどこにも所属しない旅人となった。
ただの放浪の旅にはしたくなくて、日本にいる間にいくつかの障害者、高齢者施設のワークキャンプに申し込んだ。
一年間海外ボランティア放浪の旅、と名付けた。
資金は仕事とアルバイトで貯めた百万円。
今、NHKの大河ドラマ「いだてん」でやってるような、ロシアのウラジオストクからシベリア鉄道に7日間揺られて、そこからバルト三国のラトビアへ。
ここが最初のボランティアワーク先だった。
ラトビアの知的障がい者の施設。もちろん言葉なんてわかるわけなく、現地の言葉ももちろん、英語もままならない状況。それでも言葉が通じなくても知的障がいのある人達とはなんとなくコミュニケーションがとれた。
知的障がいのある人達の、言葉に頼らないコミュニケーション力とか、すごいなーって、言葉が不自由な状況だからこそ、思い知らされた。いかに言語に頼ったコミュニケーションを今までとろうとしていたかということも。
そんなある日、青空と緑が美しい昼下がり、公園でライモンドという可愛らしい男性利用者とブランコに乗っていたら、なんとなく他の利用者も大勢集まってきて記念撮影となった。
「俺は今、見知らぬ異国の地で、見知らぬ施設で多くの知的障がいのある人達と同じ時間を共有しているんだ」って、心から胸がいっぱいになった。
この瞬間のために、俺は旅に出たんだ、と思えたパーフェクトな瞬間。それが全てだと思った。
忘れられない言葉
私が一年間ボランティアをきっかけに3年間住んだ高知県を一旦離れ、実家のある神奈川県の川崎市にある知的障碍者の作業所で指導員をしていた時のこと。
そこはダウン症や自閉症など様々な知的障碍のある18歳以上の成人メンバーが通い、自主製品としての染め物(ハンカチやストール)、スパイクの中敷きの包装作業など企業からの下請け作業をしていた。
私は先輩指導員と一緒に、主にハンカチのビー玉染をメンバーとしていた。内心「面白くないな」と思いながら(笑)
ある日、とある二十歳そこそこの女性メンバーが作業を途中で放り投げて泣き叫びうずくまって動かなくなることがあった。
聞くと作業が楽しくない、もうやりたくないとのこと。
この女性メンバーはいつも明るく振舞っており、頑張り屋だが、うまくいかなくなるとイライラしたり、気持ちが折れやすい一面があった。
その時に、ある同僚指導員が彼女に言った言葉。
「みんな嫌なことも我慢してやっているの!それが社会人として生きるということなのよ!甘えないで、早く作業に戻りなさい!」
・・・当時の私には、強烈な違和感のある言葉だった。
確かにそうかもしれない。それはある意味しごく真っ当な正論だろう。
どんなに好きな仕事であったとしても、中には嫌なこともある。
でも、彼女には選択の自由というものはないのだろうか。
もっと彼女にあった、彼女に適した仕事が世の中にはあるかもしれない。
でも現実は、作業所の中のほんの2、3の選択肢の中から選ぶしかできない。
その作業が自分にあってないとわかっていて、それをずっと続けないといけないなんて、ただの地獄じゃないか。
そう思ったのだ。
かといって、当時の私にそこまでの力も、他の作業を開発するだけの情熱もノウハウもなく、ただ「それはおかしいんじゃないか?」と思っただけだった。
この、川崎で仕事していた頃は海外に出ていきたい気持ちがどんどん膨らんでいってた時。その話はまた次回に書きますね。
介護福祉業界、大っ嫌い!!
皆さん、はじめまして(*^^*)
黒田 正実(くろだ まさみ)と申します。
突然ですが、私はこの介護福祉業界というやつが大っ嫌いです(笑)
介護福祉アドバイザーとかブログのタイトルつけながら、すみません、いきなり毒を吐いてしまいましたね。
私が、この介護福祉の世界でスタートしたのは、大学卒業後、日本青年奉仕協会という今はなき文部科学省の外郭団体が主催する一年間ボランティア計画というものに応募し、高知県のとある身体障碍者の共同作業所にフルタイムボランティアとして派遣されたことに始まります。
当時は、バザーとかコンサートとかして得た売り上げで、作業所の運営をバックアップするという後援会の手伝いをしながら、月6万円支給される生活費で、6畳一間トイレ共同風呂なしのボロアパートで生活していました。
身体障碍者の作業所といっても、実際にはダウン症や自閉症のメンバーや、精神障碍のあるメンバーもいて、造花や陶芸、印刷などの作業で細々と工賃を得ていました。
当時は社会の厳しさなんて、わかっていなかったし、若いから、ボランティアだからと許されていた部分が多分にあったけれど、当時なりに自分は障碍者だから、かわいそうな人だから、やってもらって当たり前というメンバーが多いなってことや、障碍者は障碍者だけの世界で固まってしまっているということに違和感を覚えていました。
あれから20数年が経過して、この前久しぶりに障碍者福祉センターの職員さんと話をする機会を得て、肢体障碍者協会などの障碍者団体の名簿を見たときに、まるで20年前の名簿をそのまま見ているかのように、主要メンバーの顔触れが変わっていないことに驚きました。
聞くところによると、私が20数年前にボランティア活動していた作業所のメンバーは、ほとんどが今も変わらず同じ作業所に通い続けているとのこと。
もちろん、地方ということもあるだろうけど、、一つの作業所に好きで通い続けてるならいいんだけど、、
そうじゃない、他に行先も、選択肢もないから通い続けている人たちが大半ではないのか。私には、わかってしまったのです。
社会が、制度がそうなってるんだから仕方ないじゃないかと言ってしまえばそれまでだけれど。
私は、障碍者・高齢者併せて介護福祉業界で仕事をして20年以上になりますが、いればいるほどこの世界の矛盾点が目に付くようになりました。
ですから、介護福祉の世界が大好き!とは本音ではとても言えません(笑)
これから、そんな毒の部分をこのブログでは書いていきたいと思っています。
皆様、どうぞお付き合いくださいね(*^^*)